
天保十五年(1844年)三方郡代官所(現在の福井県若狭町)の奉行、久野金太夫は、三方五湖の一つ久々湖におけるウナギ漁の権利者(漁業権保有者)甚太夫に、火縄銃をお下げ渡しになり
「うなぎ漁の仕掛けに近寄る者は、うなぎを盗む川獺(カワウソ)として鉄砲で撃ち殺す」
と近隣の村々におふれを出しました
当時の三都、江戸、京都、大阪では、すでに現在の蒲焼の原型が登場しており、急激に人気を集めて、うなぎの需要が増え続けていました
そのため、三都の大都市圏では新たな供給元の産地が現れだしていました
三方五湖もその中の一つでしたが、関西で人気が高かった瀬田川産よりも旨いと人気があったそうです
すでに、この時代になると活鰻の陸路輸送は島根の宍道湖からの輸送でもわかるように確立されており福井から京都までの輸送など技術的には何も問題はありませんでしたが、逆に今度はその輸送の利権を狙う者などが数多く現れており、若狭うなぎの輸送は一時廃止されていました
久々湖の漁師達は困り村役などと相談し、その解決策として甚太夫に事情を説明しなんとか輸送の再開をできるように頼みました
甚太夫はそれらの問題を解決し道中を安全に輸送する事に成功しました
しかし、当時の若狭地方にはまだウナギを獲る技術が乏しくてありませんでした
若狭から京都までの陸路輸送の復活に成功した二年後に、甚太夫は琵琶湖の小型定置網漁の漁法「魞漁」(えりりょう)を久々湖に持ち帰り飛躍的に漁獲量を増やしました
ただ導入当初は 久々湖以外の三方五湖の漁師連が集まり近隣の河川の漁師達も仲間に引き入れ、この「魞漁」に猛反発し、生活が難渋する事、水利の差し支え、資源の渇水などを理由にお上に申し出て、うなぎ漁の始まる前の4月には撤去されるという事態になりました
しかし、その翌年には、京都で若狭うなぎの生簀を引き受けていた山形屋安衛門の援助を受け、この年に若狭藩が命ぜられた公共工事に、金三百五十両を寄付し、再び久々湖の「魞漁」の許可を得ました
この時お上から、他の湖や河川の漁師達にも、各々の漁業権のある場所での魞漁の認可の話が持ちかけられましたが、一年前に猛反対してやめさせた漁法ですので、実際は喉から手が出るほどやりたかったのですが申し出る事ができ無い状態でした
甚太夫の「魞漁」は成功し漁獲量を上げましたが、今度はそれを嫉んだ近隣の漁師や農民の一部から、仕掛けの網を破りウナギを盗む者が現れはじめると同じような不届き者が増え続けてしまいました
甚太夫が奉行所に訴えると、当時の奉行 金太夫は直ぐに隠し目付けに内偵させその事態を確認し、即座に高札を立て
「うなぎ漁の仕掛けに近寄る者は、うなぎを盗む川獺(カワウソ)として鉄砲で撃ち殺す」と言うおふれをだしました
奉行所が一般人に火縄銃を与え射殺の「おふれ」を出すという、他には類が無い
うなぎ漁特有の史実が残されています
参考文献 「川渡甚太夫一代記」より
